主張〜あくまでも一般論として〜
これから書くことは、特定の出来事や特定の組織に関する意見としてではなく、
あくまでも“一般論”として捉えていただければと思います。
もっとも、暗に、自らの“ホームグラウンド”で起こっている事に対する意見を、今日も書き殴ります。
「相変わらず」と思われるかもしれませんが、それこそ現状が「相変わらず」なので、書かずには収まらないのです・・・。
事あるごとに、他人に「責任」を厳しく求める人達に、是非とも問いたい。
あなたは会社や学校で、ストイックなまでに自らの身を律して、自らの「責任」とやらを100%全うしているのかと。
どのような時、どのような場面においても、
人の幸せをほんの少しだけでも祝福出来なかったり、
生命の尊さをほんの少しだけでも感じることが出来ない人間に、
小難しい理屈を並べ立てて「責任」などいうことを声高に論じる資格は無い。これが私の考え。
国の存亡に関わることでもあるまいし、たかだか1つの小さな“ムラ”の中の話なのに、
人間として本来大事にすべきことよりも、遙かに優先される「責任」って、一体何なの?
同様に、他人様にやたらと「手本になること」を求める人がいるけれども、
自らが身を置く会社や学校、更には社会の中で、自分は人の手本になる行いをしているの?
「影響度が違う」などという意見は、私に言わせれば詭弁であり、言い訳以外の何物でもない。
それに、人間として本来大事にすべき事を犠牲にしてまで示すべき「手本」など必要ない。
更に言えば、人様に犠牲を強いて「責任」や「手本」を声高に求めるのであれば、
自らも禁欲に努め、「責任」を全うする義務が生じることを忘れてはならない。
そんな基本的なことが出来ない人間が撲つ意見や「○○論」などという物は、
独り善がりも甚だしく、箱だけ立派で中身がない無価値・無意味な物なのだから。
そして、自らの身を律することが出来ない・・・いや、自らの尻ぬぐいもまともに出来ない人間や組織に、
他人様のことをとやかく言う資格は無いし、形だけの「正論」を振りかざして誰かを糾弾する資格はない。
自分たちが犯した過ちを棚上げにして人の事をとやかく言ったところで、
それは何の価値も無い、単なる言葉の羅列で、刺激的な単語の単なる組み合わせでしかない。
最近、何の世界でもそうだけれども、
- 自分の行いや発言は棚に上げて、他人の行動や言動については殊更に批判する。
- 他人に自らの願望を求めるだけ求めておきながら、自分からは何も与えない。
- 何かが起こっても、必ず他人にその責任を転嫁しようとして、自らは責任逃れに走る。
という、いわゆる“自己中”な連中が、日々増殖している感じがして仕方がなく、ある種の危惧すら感じる。
もしかすると、こういった“自己中”な連中を排除・駆逐しなければ、
自分が好きな世界・・・しいてはこの国は、根本的に良くならないという、末期的なレベルまで来ているのかもしれない・・・。